「一水四見」
同じものを見ても、見る人が変われば、それぞれの見方があるということ。
人間にとっての河(=水)は、
・天人にとっては歩くことができる水晶の床
・魚にとっては己の住みか
・餓鬼にとっては炎の燃え上がる膿の流れ
というように、見る者によって全く違ったものとして現れるという仏教の教え。Wikipedia
明日やろうは馬鹿野郎
かつて人気を博したドラマ「プロポーズ大作戦」で、今すぐに着手できる/すべき事柄を、先送りする主人公を変えるきっかけとなった言葉である。
なかなか耳が痛い言葉ではないだろうか。
自慢ではないが、私はこの域はとうに脱している。
”先送り”を超越した”お蔵入り”という領域だ。
先の未来に、やる計画すらしない。
成長はしないが、罪悪感のない清々しい日々を送っている。
この対局に、息子はいる。
(北極のシロクマと南極のペンギンが出会ってしまったという状況)
彼は、やりたいことを、”今”、”この瞬間”に叶えるためにあらゆる手段を講じる。
ただ、この行動の違いは、考え方の少しの違いに起因していると、最近気付いた。
大人(私)は、義務教育で染み付いた”時間割”という考え方を使い、1日をいかに効率良くこなすか、つまりペース配分に気を配る。
例えるなら、マラソンに近い。決して、スタートから無理はしないし、笑ってゴールできる余力を残すために、給水所(休息)も時間割に織り込む。
一方、息子は、
時間割の概念を知らない。
あるのはただ、”やりたいことの順番”のみ。
こちらは、スタートから全力疾走の徒競走に近く、給水所(休息)はない。
(計画するものではなく)必要に応じて、取れば良いと思っているのだろう。
空腹に耐え切れなくなれば、当然食事は挟むし、活動限界がくれば、クレヨンを持ったままでも寝てしまう。
そして、起きた瞬間から、また全力で走り始める!
起きてから、時間を確認、水分補給、スマホでネットサーフィンをしている私を横目に、即座にやりたいことの続きを始める息子。
活動に入るまでの早さが、大人(私)とは決定的に違う!
ここだけ切り取っても、時間単位で後回しにしていることを痛感させられる。
さらにこの方法のすごい所は、
・時間割がないため、とことんやれる
という点。(付き合わされる方は大変ではあるが…)
「人生100年時代、時間はたっぷりある。」と思いながらも、
”気づけば100歳”という未来が容易に想像できてしまう。
実際、明日さえ保証されている訳でもない。
やりたいことをやった結果が明日でありたいと願いつつ、
深夜に、大好きなカップラーメンをすする。